山口県光市で1999年に母子2人が殺害された事件で殺人や強姦致死などの罪に問われた元少年の被告人(30)の死刑が確定することになった。2月20日、被告人の上告審で、最高裁第1小法廷(金築誠志裁判長)が上告を棄却する判決を言い渡したからだ。被告人は、大月(旧姓福田)孝行。犯行時18歳1カ月だった。事件と判決が問いかけた課題を追った。
問題の量刑判断をめぐって、少年の更生を重視する立場、厳罰化や被害者重視の立場双方から「少年事件の厳罰化を進める判断だ」との論調が出ているが、マス・メディアがあおっているだけで、今回の判決を冷静に読めば、厳罰化を支持した内容ではない。しかし、少年法の精神を尊重して「真相未解明なら、差し戻してもう一度慎重審理」の道があったのではないか。さらに突き詰めると、今回の判決は、死刑そのものの是非を浮き彫りにした。
<「私憤」を超えて>
ある日、突然、妻と生後11カ月の娘を白昼の自宅で殺害された。その日会社に出勤したときの朝のあいさつが最期の別れとなったとしたら--。
もし自分が被害者遺族の立場だったらと思うと胸が張り裂ける思いだ。素朴な感情として「犯人を殺してやりたい」と思うかもしれない。しかし、それはあくまで感情だ。
かつては復讐が法で許される正義だった時代もある。「目には目を」だ。正義の内容は時代を超越して絶対ではなく、時代や国・社会によって変わる。
近代民主主義社会は、私憤のままに行動する「復讐の正義」を許してはいない。刑罰が個人の私的感情に左右されることを防ぎ、犯行への報いとして罪を科すことを国家権力(司法)に委ねている。死刑制度は、因果応報といえども、1個人ではできないことを国家には許していることに他ならない。
<悩んだ13年間>
「全国犯罪被害者の会」に当初から参加し、死刑を強く求めてきた被害者遺族の本村洋さん(35)だったが、判決後は別の心境も語った。「死刑を科すことに悩んだ13年間だった。社会でやり直すチャンスを与えるのが正義なのか。命で償わせるのが正義なのか」「これが絶対的な解答ではない」。
被害者遺族でさえ悩み、裁判官でさえ意見が分かれた死刑判断。裁判員裁判制度が導入された今、裁判員がそれを判断する。人を裁く意味は重く、精神的負担は大きい。
しかも、十分な審理を尽くし慎重な判断が求められるが、求刑は審理の最終段階に行われる。このとき初めて検察が死刑を求刑するかが分かる。
被告人と弁護人の側は、死刑がありうる凶悪犯罪の場合、死刑を想定して「防御」しているはずだ。
しかし、検察の立証と弁護人の防御がかみ合ってすすみ、「永山基準」に照らして判断できるだけ審理が煮詰まったかどうか確認してから、求刑の段階を迎えるわけではない。裁判員が、死刑求刑前から常に「永山基準」を意識して審理に臨むことが可能だろうか。最終弁論を経て、評議する段になって、判断するには審理が不十分と感じることは起きないだろうか。
<呪縛からの解放>
確実に言えるのは、もし日本に死刑制度がなければ、感情は別として、誰も死刑を求めることはできないということだ。死刑廃止国は139カ国(事実上の廃止を含む。2010年時点)と、世界の3分の2を占める。死刑が「正義」ではない国があるのだ。
「市民も重い命題を背負った」などと、国民にツケを回すのは酷だ。
死刑の呪縛から解き放てば、本来議論されるべき問題も見えてくる。死刑をなくしたらどうなるのか。国民全体で考えればいい。
仮に更生が可能だとしてもどのような矯正手段が社会全体にとっていいのか。安易に更生可能を信じて再犯に至り、再び被害が起きるようなことがあってはいけない。仮釈放を認めない無期懲役の導入も課題にのぼってくる。検察調書偏重といわれる「精密司法」の弊害をどう是正するのか。基準に当てはめて因果応報の罰を科すだけが刑事司法の役割なのか。
死刑を科すことの重圧と悩みから、被害者遺族も含め国民を解放する方向を探るときではないだろうか。
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